- 生年月日
- 1899年(明治32年)05月23日
- 出身地
- 兵庫県(神戸市)
- 最終学歴
- LAベンジャミン・フランクリン・ハイスクール卒業
- 入社年月日
- 1944年(昭和19年)04月19日
- 役員履歴
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- 1944年(昭和19年)04月19日 代表取締役社長
- 1963年(昭和38年)11月17日 代表取締役社長死亡退任
株式会社アキボウの前身は、1944年(昭和19年)4月19日に設立された亜細亜自転車交易株式会社である。わが国では、太平洋戦争の始まりとともに経済統制が強化、1941年8月の重要産業団体令に続いて、1942年5月に公布された企業整備令によって中小企業の整理統合が進められていた。同社は1944年4月の交易業整備要綱令により、荘司茂樹が率いる東方貿易株式会社を中核として同業の4社を統合し、設立された自転車輸出統合会社であった。資本金は20万円、大阪市西区南安治川通1丁目の民家1階に事務所を設けた。荘司が社長に就任し、役員は各社から2名ずつ選出した。
1945年8月15日、太平洋戦争が終結し、立法・行政・司法のすべてがGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の管理下に置かれることとなった。当社もGHQの管理のもと、10名足らずの人員で、わずかに貿易公団管理の政府間契約の輸出の実務代行者として少額の生産手配や積出を行ったが、それ以外に特筆すべき業績はなかった。しかし、いずれ開かれる民間貿易に備えて、体制を整え、機会をうかがっていた。実務代行を辞退する会社もあったが、当社は積極的に代行を引き受けて実績を上げ、結果としてメーカーの信用も得ていったのである。
1948年5月、民間貿易の自由化とともに統合体を解体、当社は亜細亜自転車貿易株式会社として再スタートした。同年夏には、大阪市福島区(現・北区)堂島浜通4丁目に土地と建物を購入、12月23日新事務所に移転した。その際、資本金を1,000万円に増資した。株主は65名、ほとんどが自転車関連取引先メーカーで、当社はその輸出を代行した。1949年12月には事務所裏の堂島川沿いに倉庫を建設した。
民間貿易再開後、まず1948年末にインド向けの大量の注文に恵まれた。このインド向けの船積みが開拓期の当社の基盤を固めるものとなった。当時の主な輸出先はアジア、中近東、アフリカ、中南米の発展途上国であった。バイヤーは年々増加した。中でも重要な市場は、台湾、インドネシア、タイ、東アフリカであった。これらの地域はイギリスを主とする欧州製品に市場を制圧されていたが、次第に日本製品の品質が認められ、受け入れられるようになった。1950年6月、朝鮮戦争勃発。原材料価格は高騰したが景気が刺激され、当社の業績にも好結果をもたらした。1951年8月、資本金を倍額増資して2,000万円とした。
1953年6月、取り扱い品目が増えたことから、社名を亜細亜機械貿易株式会社に変更した。機械関係の重要市場である台湾・台北に連絡事務所を開設、1956年9月には機械課を新設した。続いて、1958年4月、自動車課を開設、品目ごとに専門の部署がそれぞれ担当することとした。
1950年代後半よりアメリカや北欧、オーストラリアの市場の開拓に力を入れた。順調に回復してきた世界景気の波に乗り、日本経済は各分野において戦後最大のめざましい拡大発展を遂げ、輸出も著しく伸展した。当社の業績も好調に推移し、1959年11月、社屋と倉庫の増築に着工、翌年4月中旬に完成した。1962年4月、モーターサイクル関連の需要に対応し、独立の軽車両課を創設した。
当社は設立以来、荘司社長の強力な指導力によって発展、業界のリーダーとしての基礎を固め、1963年に輸出貢献企業の認定を受けた。次の課題は欧州進出であったが、荘司社長は同年11月17日、現役のまま64歳で急死した。だが、20年にわたって築かれた開拓の成果とその地盤は、初代社長の大きな遺産であり、次の時代に引き継がれることになる。