- 生年月日
- 1917年(大正06年)09月27日
- 出身地
- 東京都(小石川区)
- 最終学歴
- 法政大学経済学部卒業
- 入社年月日
- 1946年(昭和21年)02月
- 役員履歴
-
- 1964年(昭和39年)05月30日 取締役
- 1975年(昭和50年)05月30日 代表取締役専務
- 1977年(昭和52年)06月29日 代表取締役社長
- 1989年(平成元年)06月30日 代表取締役社長退任
1977年(昭和52年)6月、浅田適也代表取締役専務が、平田鋭之の跡を継いで第3代社長に就任した。浅田は、入社後すぐ東京出張所所長として、本社へ転勤後は営業部長として会社発展に貢献した。
従来のアジア各国に加えて、1970年代後半期を支えたのは、高品質の日本製品を求める欧米の大口顧客であった。そのうちの一社がアメリカのROCKY社である。1978年、韓国および台湾製モーターサイクル部品の買付のため、ROCKY社と合弁で台北に事務所(RAC社)を開いた。
1980年、前年からの円安傾向と諸外国とのインフレ格差によって、日本の輸出は30%近い伸びを示し、当社の総売上も前期比38%増で史上最高の133億円を記録した。以後この記録が破られることはなく、1980年代、輸出業界は非常に厳しい環境に直面することになった。
為替相場は1980年初期に米ドルの多少の反発はあったものの、その後は一貫して円高傾向で推移した。この時期、取り扱いの主流となっていたのは、海外の自転車メーカーへのOEM(相手先ブランド製造)組み付け部品であった。部品生産工場は数社の寡占状態で、納期の遅延や荷物の不揃い、客先からのキャンセルなどの問題が生じて予期しない費用がかかり、収益を圧迫した。また、韓国、台湾、中国、メキシコなどNIES(新興工業経済地域)製品の市場への進出がますます増加し、かつてイギリス、ヨーロッパを追った日本が新興工業経済地域に追われる立場となった。円高も大きな要因となって日本の部品メーカーの競争力は低下、売上は下降線をたどった。従来の東南アジア、中近東、アフリカ、中南米への輸出は大幅に減少し、代わってアメリカ、欧州、台湾(欧米向け自転車組み付け用)部品が上位を占めるに至った。
1985 年のプラザ合意を契機に、1980年代後半以降さらに急激な円高が進行した。世界的な不況の中で、D/A(後払い契約)が慣習の中南米向け船積み分の決済遅延が大きな問題となっていた。その他、インドネシア、ナイジェリア、カナダなどの売掛金回収の遅れも、資金運用の悪化を招いた。輸出業者にとって厳しい環境の下、当社は、先進国向けに一層重点を移すこと、また輸入および三国間取引(仲介貿易)の増加を図ることを営業方針とした。1980年代後半には、台湾をはじめとする新興工業経済地域との競合により、日本からのアメリカ向け自転車の輸出も激減した。
社内組織の集約化と経費の節減にも努め、1979年にコンピューターを導入、種々の事務の合理化・省力化を図った。収益の恒常的悪化と、コンピューター化により余剰人員ができたことから、1986年12月、希望退職者を募集し11名の人員削減に踏み切った。欧米市場での競争が激しさを増すなか、事業の重点を国内営業に転換し多角化を図るため、1988年10月、社名を「株式会社アキボウ」に変更した。また、余剰部分が増えた本社ビルと老朽化してきた木造倉庫を売却し、売却代金を新事業の資金に充てるとともに、国内取引により便利な地に事務所と倉庫を新築することを決定した。
厳しい経済環境の中、浅田は、1980年には自転車輸出組合理事長に就任、当社だけでなく業界発展に尽力した。当社の社長として奮闘を続けてきた浅田は、1989年6月定年退任した。